海に沈んだ天孫大神殿の位置

まとめの書『アトランティスの幻/地球の真実の歴史(楽天kobo)
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屋久島の巨石が指し示す場所

 GoogleEarthを見てみると屋久島の解像度が上がっていた。これらを元に海に沈んだ天孫大神殿(海底遺跡)の位置を推測して見たいと思う。
 屋久島では今まではっきり見えなかった巨石の位置が分かるようになった(図7)。
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図7

 ここは屋久島で最も高い宮之浦岳の山頂付近の割と平らな地域で、巨石が一列に並んでいる場所がいくつかあるという。 これによりアマの神殿の位置を推測してみると、ナスカ地上絵のような明確な痕跡は見つけられなかったが、 北を基準にして西に60度ぐらいの方向を向いている巨石の列がいくつか有るようだ。 この方向にアマの神殿が有ったと考えられる。角度的に61度±2度ぐらいだと思う。 ナスカと同様に台形標識だった可能性も有るので全てが平行の石の列では無いのかも知れない。

 また神殿は古事記より海岸付近に有ったと考えられるので水深を調べる事で位置を推測できる。 最終氷期では最大で150メートル海面が低下していた可能性が有る。 また1万2千年前は120メートル低下していたという説も有る。 海面低下は場所によって違いが有るので、正確なデータは局地的に綿密な調査をする必要が有る。
 しかしそれは無理なので深度150メートルと120メートルで、GoogleEarthの海底地形データより古代の海岸線を推測して見る。 海面が150メートル低下してたとする海岸線と黄河と長江をマップにして見る(図8)。
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図8
日本列島と中国・朝鮮半島は地続きであり、日本海と太平洋は津軽海峡のみで僅かに繋がっているだけである。 屋久島から約61度の線の黄色のアイコンの位置に大神殿が有ったと推測できる。また黄河と長江はこの付近に流れ込んでいたと考えられる。

 この地形とは位置は、大平原だった中原葦原の東海岸であり、大河に囲まれ河口が近く、西部には聖なる高い山(天山山脈)が有りという状況で、 アマ本国の首都アクロポリスと似ている。こう考えると天孫がこの地を選んだのも納得できる。 朝日に向かい夕日も綺麗だった満足できる立地条件だったのだろう。

 では海岸線が120メートル低下してたとする(図9)。
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図9
日本海と太平洋が対馬の西で細い海峡で繋がり、中原葦原の海岸線が後退している。大河の位置はほとんど変化が無いだろうと考えられる。 この状況だと日本海に暖流が流れ込み、日本は意外と住みやすかったかも知れない。海峡が有るので海路で移動も楽だっただろう。 天孫が攻めてきた時に、大国主は出雲でのんびりと避暑を楽しんでいたのかも知れない。

 天孫降臨した後に中原葦原に築いた大神殿は、この2つの地点の付近に沈んでいると推測される(図10)。
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図10

 思ったより広い範囲になってしまい残念だ、当時の海面が分かればもっと絞れると思うのだが。 また神殿はこの位置だけでなく、出雲高層神殿やもっと南にも別の天孫神殿が有ったと考えられる。

 そしてこの大神殿と街が津波で海底に沈んだ時、そこに住んでいた人は東に北に西に南に逃げた。 東に逃げた人達は九州の住み天皇家の先祖となった。 北に逃げた人達は後に百済と呼ばれる国の元になった。彼等は兵士が多く身体が大きく身体能力に優れた人が多かった。 西に逃げた人達は中央アジアやチベットで暮らし、戦争を繰り返し支配欲を満足させたり閉じこもった。 南に逃げた人達は国土が消えバラバラになったのだろう。東南アジアの山岳地帯にその名残が有るかも知れない。

 この天孫(アマゾン)による支配と崩壊は、古代のアジアとその後の歴史に重大な影響を与えたと考えられる。

歌垣と神籠石山城

 歌垣と神籠石を調べていたら面白いデータが取れた。これにより海底遺跡の位置をより正確に割り出せそうだ。

歌垣

 歌垣(うたがき)というのは、特定の日時に多数の男女が折り合い、男女が歌謡を応答しあい気に入った相手を見つける習慣である。 日本においては朝廷も行事としても有り民衆の間でも有ったようだ。歌は単なる短歌のような物では無く呪術的な意味合いも有ったと言われている。 歌垣に似た習慣は日本の他にも中国南部や東南アジアの山岳地帯にも見られると言う。

 男女が特定の日に合う、呪術的、日本と東南アジアの、というキーワードが来れば、 それはアマ(アトランティス)の習慣の名残ではないかという推測に繋がる。

 日本において古代の歌垣で有名な場所は、茨城県の筑波山、大阪府能勢町の歌垣山、佐賀県白石町の杵島山である。それをマップにして見た(図11)。
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図11

 案の定一直線に繋がった。結婚相手を探す訳だから非常な重要な儀式であり、特別な意味の有る場所で行われたのだろう。 また歌を返し合う訳だから肉体労働階級では無く、知識階級や上層階級の習慣であっただろうと思われる。

神籠石山城

 神籠石(こうごいし)山城は、石垣などが見つかっており山城である事は確実なのだが、 記録が残っていない誰が何時作ったのか分かっていない城の事である。 古代朝鮮山城との類似が指摘され、古代の大和王権や邪馬台国との関連があるという説も有る。 しかしながら現状では何も分かっていない古代遺跡である。これはアマとの関連が有ると思われる。
 神籠石山城は九州北部から瀬戸内にかけて15ぐらい見つかっており、これをマップにし図11と重ねてみる(図12)。
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図12

 やはり同一コース上に集中して分布してる。このコースは非常に重要なルートだったようだ。 とすればその先に天孫の神殿が有った街が有ったはずと推測できるので、図10の神殿予想位置と重ねて見ると、 海面がマイナス120メートルだったとする予想位置とほぼ一致した。この神殿の位置は、男鹿半島−隠岐−沖ノ島のコースとも一致する(図13)。
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図13

 屋久島と歌垣開催地と神籠石山城の分布から、天孫の街と大神殿が有った位置(海底遺跡)を絞り込む事が出来たような気がする。
 その場所は uta4付近であるが、さてどうだろうか。残念ながら、確かめる手段は今の私には無い・・・

 また筑波山は思っていたより重要な場所のようだ。おそらく兵士(オン)の居住地やその他の施設も多く有っただろうと考えられる。 筑波山には男体山と女体山があるが、距離的に近過ぎるのでこれでは意味を成さない。日光に男体山が有りキツネ伝説も有る事から、 ここが男性居住区だった可能性が高い。元々は筑波山は女体山のみで、筑波の男体山は後世に付け足された物だと思われる。

 隠岐や出雲はもちろん、男鹿半島や鹿島灘の海底も要注意のようだ。また日光の九尾のキツネの伝説も気になる。 キツネはアマの科学者だったのかも知れないからだ。これからはアマの科学力の研究もしたい。


2010.5.26大神殿の位置 追加、6.17歌垣と神籠石追加、6.18巨石の考察から分離し小修正
4章 ナスカ地上絵の謎と考察
5章 日本のナスカ、巨石の謎
6章 天の鳥船と建御雷について
7章 鬼伝説の真相
8章 巨石の謎その2 考察
9章 海に沈んだ大神殿、海底遺跡の位置(こ のページ)
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